ソフィ・カル

Sophie Calle: Did You See Me?

Sophie Calle: Did You See Me?

目次

作家プロフィール

ソフィ・カル/ Sophie Calle(1953-)
フランス、パリ生まれ。

写真と言葉を組み合わせた物語性の高い作品で知られるフランスの現代美術家。彼女は、ロンドンのテートギャラリーやパリのポンピドゥーセンターをはじめとする各国の主要美術館での個展開催、第52回ヴェネツィアビエンナーレ(2007年)への参加など、世界で最も注目されているアーティストの一人です。

執拗な好奇心に導かれた驚くべき制作プロセスによってうみだされるカルの作品は、常に観るものの感情を強く揺さぶります。自身や他者のきわめて個人的で親密な体験を主題にするカルの作品ですが、そこに提示されるのは、アイデンティティ、コミュニケーション、記憶、知覚といった誰もが日常のなかで向き合う普遍的なテーマといえます。生と芸術表現とのあいだに新たな関係を樹立しようとするカルの試み、それは、わたしたちの現実のさまざまな場面おいて、思いもよらない視点をもたらしてくれることでしょう。*1

作品紹介

《À Suivre(尾行)》(1978)

f:id:az13:20170205010539j:plain http://eyesforblowingupbridges.blogspot.jp/2010/08/suite-venitienne.html

彼女は変装して約2週間、パーティーで会った男性をパリからヴェニスまで尾行した。*2

《Les Dormeurs(眠る人々)》(1979)

f:id:az13:20170205011237j:plain http://www.artwiki.fr/wakka.php?wiki=SophieCalle

彼女は自宅に見知らぬ人や友人を招き入れ、自分のベッドで眠る様子を撮影しインタビューした。*3

《盲目の人々》(1986)

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写真、テキスト 23点組
http://www.artgene.net/detail.php?EID=11028

〈盲目の人々〉は、「不可視」というテーマを掘り下げたカルの代表作のひとつです。1986年、彼女はこの作品のために1年間にわたって生まれつき目の見えない人たちとの対話を試みました。彼らに「これまでに見た一番美しいものは何か」という質問をぶつけ、インタビューに応じた人の肖像写真、言葉とともにそれをヴィジュアル化した写真を添えて展示したのです。 興味深いことに、彼らの答えの大半は、とても視覚的なものでした。「見ること」とは、私たちが考える以上に主観的なプロセスのようです。彼らが語った言葉は「見ることとは何か」「美とは何か」について思いがけないことを教えてくれるのです。 ところで、棚の上に置かれた写真(盲目の人々の言葉をヴィジュアル化したという写真)が、じつに不可能な試みであると気づくまでに時間は要しないでしょう。彼らが見たものを、いったいどうすれば見ることができるのでしょうか。ここでカルは、ファインダーを向けるだけでは捉えることのできないものが世界にあることを、そして自己と他者とのコミュニケーションの限界を、静かに浮かび上がらせています。*4

《限局性激痛》(1999)

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原美術館コレクション展:トレース」展展示風景  http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/rxHNlygp41vCdZzT96EL/

「限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。*5

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「限局性激痛」第2部で特徴的なのは、テキストが全て刺繍でつづられている。*6 ソフィの話の刺繍はタペストリーの枚数を追ううちに、少しずつ短くなっていく。そして、タペストリーは白い布地に黒い糸で刺繍されていたのが、白い布地はどんどんグレーがかっていき、最後には真っ黒な布。はっきりと刺繍されていた文字が、その頃には布地の色と溶け込んで、かなり読めなくなってしまう。長々と書かれていた言葉も、そこに至ると「ただそれだけのことだ。」という言葉で締めくくられる。*7

《La Dernière Image(最後のイメージ )》(2010)

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https://epokal.com/monotone_column/4930

13人の“かつて見えていた”盲目の人々に出会う。 この作品で尋ねられるのは、彼らが最後に見ていたものは何だったのかというものであった。 タイトルとこれだけの序文が、作品のビジュアルに意味を人々にもたらせる。 エモーショナルでショッキングな共感を伴いながら。

プロジェクトを通して明らかになったのは、人々が一枚のイメージに対して、 その存在を共有できるだけの虚構すら間が持たないということである。 誰一人として同じ視野を持っていないという当たり前の本質であった。 ソフィ・カルが現したのは、追体験という人それぞれの絶対の主観性である。 人と人の間の境界を乗り越えるのは、それを前提に納得したうえに、 精神の深いところで感じる繊細な意識の共振であるのかもしれない。*8

《Voir la Mer(海を見る )》(2011)

f:id:az13:20170205005949j:plain https://epokal.com/monotone_column/4930

内陸部に暮す人々の仲にはしばしば、海という大いなる母を目の当たりにしたことのないものがある。 人生の中でたった一度も海を見たことのない人々に海を見せるところからプロジェクトは始められる。 やってきた14人は海岸で、その風と波の音と肌触りに包まれながら、それぞれの時間でこちらを振り返る。 14の人々はその思い思いの海に触れて、その表情を14本のビデオに映し出す。 14人分の海はそれぞれ、ソフィ・カルとも、他の誰一人とも同じものではないはずである。 人々は同じ時間同じ空間を共有していても、なお同じ視野を持つことはできない。*9