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ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス

目次

作家プロフィール

ペーター・フィッシュリ/ Peter Fischli(1952-)ダヴィッド・ヴァイス/ David Weiss(1946-2012)

ともにチューリヒ生まれ、同地在住。

1970年後半、アーティスト、ウルス・ルッティとの交流や、当時チューリヒのアートシーンにおいて中心的な場であったバー「コンティキ」等を通じて親交を深める。1979年、ソーセージやハムで日常を再現し写真に撮った風景画「ソーセージ・シリーズ」を、1981年、自らネズミとクマに扮し、社会システムの矛盾を暴き、自らの秩序を構築しようとする映像作品《ゆずれない事》、冊子《秩序と清潔さ》を制作。以降、様々なメディアを柔軟に操り、「日常」をテーマに共同制作を続けている。一つのシリーズ、モチーフに膨大な時間が費やされる表現には、極大と極小、平凡と非凡、道理と不条理、秩序と無秩序が混在し、新たな世界像が提示される。2003年ヴェネチア・ビエンナーレで発表した《無題(質問)》で金獅子賞受賞。*1

作品・シリーズ紹介

《Sausage Photographs(ソーセージシリーズ)》(1979)

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《カーペットショップにて》(《ソーセージシリーズより》)(1979)写真
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/WcrKE9O71SFeQpfgGLbR

フィッシュリとヴァイスが最初に共同で制作した作品。冷蔵庫の中、洗面所、ベッド、バスタブを舞台に、ソーセージやハムのスライス、吸いかけのタバコ等を用いて、火事、山の一場面、交通事故、歴史的事件を形にしたもの。再現された世界の物語性と用いられた素材自体の即物性の併置から、表現の在り方を模索する作家の姿勢が伺える。*2

《The Least Resistance(ゆずれない事)》(1980–81)


Fischli and Weiss' THE POINT OF LEAST RESISTANCE
16ミリフィルム 30分 フィルム・スチル
camera: Jürg V. Walther

最初の映像作品《ゆずれない事》(1980-81)で、ネズミとクマは芸術でひと儲けを企むが殺人事件に巻き込まれる。さんざんな目に遭いながら、ネズミとクマは社会システムを独自に解読し始める。*3

《THE Right Way(正しい方向)》(1982-83)


Fischli and Weiss' THE RIGHT WAY
16ミリフィルム 55分

《正しい方向》(1982-83)での彼らは、知性と野心を備え、自然界で生きる術を模索する。この2作品に登場した大きなネズミとクマは今、キャビネットの中に陳列される。小さなネズミとクマは、バロック様式の宮殿や日本庭園を巡る。天井からつり下げられ空中を浮遊するネズミとクマはカラフルな光と煙の奥へと消える。*4

《Suddenly this Overview(不意に目の前が開けて)》(1981/2006)

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アインシュタイン夫妻、息子の天才アルベルトを作った直後》(《不意に目の前が開けて》より)(1981) 粘土
http://www.the-aesthetic-of-the-fragment.info/021.html

DW 粘土のオブジェはナラティブの要素がとても強いです。まずは世界史において重要な出来事と些細な出来事との両方を作りたいというコンセプトを基に始めたのですが、タイトルは参照せずにオブジェそのものだけを見たら何がなんだか分からないかもしれません。ふたりの人がベッドで寝ているのを見ても、タイトルがないとただふたりの人が寝ているというだけのものです。しかし、「Herr and Frau Einstein shortly after the conception of their son, the genius Albert(アインシュタイン夫妻、息子の天才アルベルトを作った直後)」というタイトルを読めば打って変わって新たな意味が生まれます。*5

《Equilibres(均衡)》(1984/85)

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《無法者》(《均衡》より)(1984/85) 写真 http://www.artgene.net/detail.php?EID=6458

タイヤ、椅子、靴、ブラシ、フォーク、キッチン用品などが危うげなバランスでたたずむ。本シリーズは、静止状態を保つことのできない形を写真に留めることにより「つかの間の彫刻」として永続性を持たせている。重力とバランスにより危うく立つ姿が、観る者の感情をゆさぶる。各作品には、《ピラミッドの秘密》、《無法者》などのタイトルがつき、物語性が強い。*6

《Visible World(目に見える世界)》(1986–)

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light table with 3000 photographs, 83 x 2805 x 69 cm.
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/WcrKE9O71SFeQpfgGLbR

PF 最近、チューリヒでとある写真家と話をする機会がありました。彼は自分の職業はもう時代遅れだと言っていました。存在し得るイメージは今ではもう全て存在し、欲しいものはなんでもデータバンクから引っ張ってくることができるというわけです。わざわざツェルマットまで行って自分でマッターホルンの写真を撮る意味はもはやありません。「Visible World」を作ったときにも既に膨大な数のイメージが存在していましたが、全く理にかなわないことをしたというのが今や作品の核心をなしていると思います。たとえイメージそのものが存在していても自らその場所に出向いて自らイメージを作ると決めて、実際にやりました。写真を撮るということが無駄な行為となっていくにつれ、作品の意味がますます深まっていくようにさえ思えます。個人的な経験というものから離れることはできません。

DW エジプトのピラミッドを見に行くと、その場に立つ前からもう殆どの角度から見たことがあるため既に隅々まで知っていることに気が付きます。「Visible World」を作り始めたときにもこの現象が既に起こりつつあって、カタログを出版するほどのイメージバンクもありました。ちなみに私たちはそのカタログを集めていたのですが、それを使ってアーティストブックを作ったこともありました。

PF カタログを使って本を作るほど、このようなイメージバンクに興味があったのですが、私たちの写真をよく見ると何かがちょっと変だということに気が付きます。イメージバンクの写真は超プロ級の理想化されたイメージで、私たちには届かなかった完成度に達しています。だから私たちが撮ったマッターホルンの写真とイメージバンクのマッターホルンとを比べたときに見える違いは、ある意味、私たちの彫刻オブジェと実際の物との違いと似ていると言えるかもしれません: 100%までは達していないということです。*7

《Airports(エアポート)》(1987–)

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Cプリント 各H160 x W225 cm
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/vwpZOPsDiqGHnVF9BJfa/?lang=ja

1987年以降、世界各地を移動する中、空港を撮影した作品。現在も進行して いるプロジェクト。異なる文化圏にありながらも共通に機能する空港の均質 さ、飛行機から垣間見える各国のアイデンティティ、夜の光、雨のしずく、窓越しに見る空港の情景の豊かさが映し出されている。*8  

ART iT そういう意味では、私にとってあなた方の作品に妙に距離を感じる理由のひとつは、作品を理解するための情報が全て作品自体に含まれているという点です。空港の写真は必ずしも空港の批判ではなく、空港の理想化とも限らない。空港のイメージそのものであるという事実だけは確かで、より深く解釈したくなければそれでよい、という。

DW 私は作品の多くをある種の招待と考えています。作品に招き入れられて、それからどう理解するかはあなた次第。誘惑とも言えるかもしれません。

PF 「より深く」というのはどういうことなのでしょう。作品に深入りするということ。これはいくつもの意味を持つことができます。もちろん、スーザン・ソンタグの「反解釈」という非常に説得力のある概念もありますが、そのような態度には鑑賞者を煙に巻いてしまう危険性があります。最終的には作品自体のフォルム、つまりこの写真の表面やその粘土のオブジェのフォルムがあるだけで、どれだけ知的・感情的に深入りするかというのは各々によることであり、作品自体から読み取ることはできません。

ART iT もしかしたら窓ガラスのような透明性という見方もあるかもしれません。自分の姿が窓の表面に反射されていて、窓を通して何かを見ることも、窓そのものを見ることもできます。『Airports』では自らの空港の経験が反射されると共に、誰か他の人の空港の経験を見ることも、単に空港のイメージを見ることもできます。

PF 実は今、『Airports』の写真を基にまた新しい本を作っているところなのですが、過去12年か15年くらいの間に写した800ほどの空港の写真を見ていて、突然「あれ、これは天気についての本になるな!」と気付きました。イメージの編集を始めると、雨が写っているものや雪の写っているものが目について、実際に天気を中心とした本として構成することもできることに気が付きます。 でもそれは同時に現代の紋章学、ロゴや標識についての本にすることもできます。空港の飛行機では国旗やロゴが混合されているのがとても面白くて、例えばアリタリアの場合はイタリアの国旗の色はもはや国家の象徴ではなくなりブランドと国家とが重なり合っています。この重なり合いに興味が惹かれますが、これもまた作品のひとつの要素に過ぎないのです。*9

DW 『Airports』の写真集(1990)を作ったときに、撮影した空港の名前を書かない方が良いことに気付きました。人は大抵そこに写っているのはヒースローかケネディか知りたがり、それだけで満足してしまいます。でも私にはその情報がない方がイメージとしてある意味もっと深みが増すように思えるのです。だから美術家としては情報を隠すという手法もあります。先ほど挙げられた広告のインスタレーションの場合は逆に情報が多過ぎるからこそ、なぜそれらのイメージが一緒に組み合わさっているのか鑑賞者には分からない、ということになるのでしょう。人をこらしめるという要素もあるのかもしれません。*10

《The Way Things Go(事の次第)》(1987)


The Way Things Go
16ミリフィルム 30分

「均衡」シリーズの制作から着想を得た作品。ゴミ袋、タイヤ、梯子、ペットボトルなどの空の容器、風船、椅子、モップ、車輪のついた簡素なオブジェ—— 重力、遠心力、水力、化学変化によって引き起こされる発泡、煙、火等によりドミノ倒しのように、次から次へとエネルギーを伝えていく。現象のみで紡がれた物語には人の気配は一切排除され、あたかもガラクタひとつひとつが能動的にひとつの方向に向かってエネルギーを伝えようとしているかのようである。*11

《Untitled (Questions)(質問)》(2003)

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第50回ヴェネチア・ヴィエンナーレでの展示風景(2003)
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45&d=854

「街を治めるのは誰だ?」「銀河はどこへ向かうのだろう?」「我々は自分の意見と共に生きていかねばならないのか?」など身の回り些細なことから哲学的なものへと及ぶ問いが、止むことなく空中を漂う。10台以上のスライド・プロジェクターにより現れるこれら数々の問いは、観る/読む者に答えを出す間を与えず消えては新たな問いへと止む事なく移り変わり、同時多発に現前する。このような世界や人間心理を問う「質問」は、1981年制作の映像作品《ゆずれない事》の最後のシーンで主人公のネズミとクマが社会システムを図式化し、実際、冊子として発表された《秩序と清潔さ》(1981)の中に現れる。その後、ポリウレタンで成形された大きな壷型の作品《質問の壷(大)》(1986)では、内側全面に渦状に質問が書かれる。また、2002年には『幸せは僕を見つけてくれるかな?(Findet Mich Das Glück?)』という書物となる。質問は現在も増え続けている。
※解説:北出智恵子*12

《Sun, Moon and Stars(太陽、月と星)》(2008) f:id:az13:20170204075838j:plain
797 facsimile reprints of advertisements, offset prints in color, 38 vitrines of wood, glass and steel, each 78 x 177.5 x 72.5 cm, total 268.2 x 77.0 x 72.2 cm.
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/vwpZOPsDiqGHnVF9BJfa/?lang=ja

PF 広告のプロジェクトのきっかけはごく単純です。2007年にスイスのリンギアーAGという報道会社が年報のためのプロジェクトを私たちに依頼しました。そこで、リンギアーAGの収入について調べてみたところ、雑誌の収入の9割以上はキオスクでの売上ではなくて広告収入だということが分かりました。よし、業績報告なのだから業績に注目しよう。年報を広告で一杯にすれば発行者が喜ぶのではないか——雑誌の発行者は誰だって広告をたくさん載せたいわけだから、と考えました。 それから色んな雑誌の広告を集めだして、ニューススタンドとは要するに現代についての百科事典なのだということに気が付きました。「Suddenly This Overview」でやろうとしていたこととあまり変わりません。ニューススタンド、つまり駅や路上で雑誌などを売る小さな売店には想像しうる全てのテーマについての雑誌が並んでいます。携帯電話、コーヒー、食べ物、フライフィッシング、武器、壺、鳥、猫——なんだってあります。これは凄い、と思いました。 色んな雑誌の広告を切り取ってセクション別に分けて並べてみたら、それぞれの広告が全て連関している様子が見えてきました。そこで、私たちはこのたくさんの広告ページを使って誰かの生涯をまるごと表すことができるのではないかと考えました。花嫁と結婚式から始まって、ホテルでのハネムーン、妊娠、赤ちゃん、その赤ちゃんが成長してポップミュージックやスニーカーを買うティーネージャーになって、という設定で。人の生涯はその人が消費する物だけを通して表すことができます。初めて消費したのは哺乳瓶に入っているミルクだったり、ということです。ジョルジュ・ペレックの小説『物の時代』(1965)とそっくりとまでは言いませんが、似たようなコンセプトです。

DW また、例えば車というような特定のセクションに限って考えるとしても、それは人がどのようにして車を売ろうとしているか、その広告に至るまでの思考やコンセプトについての記録になっているのです。ボルボは安全と家族を意味し、また別の車は地平線の前に若い男女と共に写っている。それぞれのイメージに途轍もない努力がつぎ込まれています。 それらの広告が雑誌の中にあるときには特に気に留めることは殆どありませんが、よく見るとかなりシュールなイメージもあったりします。とにかく全て何かを売るためのイメージで構成されているのです。その一方で、売り手としては広告を基に人々が商品を買ってくれるという希望や見解しかないわけです。

ART iT 前回、『Airports』や「Visible World」といった、今日におけるイメージの陳腐さを受け入れているとも言える作品について話をうかがいました。しかし、それらの作品を鑑賞する側としては、どうしても見たままの率直さを受け止めずに深読みしてしまうこともあります。個人的には例えば雑誌から引きちぎられた広告のページとテーブルのインスタレーション作品「Sun, Moon and Stars」(2008)を見たときのことが挙げられます。そのときには一体どういう意味を持った作品なのかうまく理解できませんでした。後に残っていたのは何かを逃してしまったということ自体ではなくて、むしろ何かを逃した悦びでした。あなたたちの作品の多くには、深読みしてしまう危険と趣旨を完全に逃してしまう危険との間の繊細なバランスが見られるように思えます。

PF 私が好きな美術作品にはそのように何かを逃す体験をするものが多いです。作家の意図や作品が何を意味しているかがあまりにも分り易すぎるという理由で他の美術家を批判することだってあります。何かを逃すということ、本当は一体何が起こっているのか不思議に思わせることこそが美術の重要なポイントのひとつです。*13

フィッシュリ&ヴァイス BOXセット [DVD]

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幸福はぼくを見つけてくれるかな?

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