サンティアゴ・シエラ

Santiago Sierra

Santiago Sierra

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作家紹介

サンティアゴ・シエラ/ Santiago Sierra(1966-)
スペイン生まれ。ルッカマドリッド在住。

作家は、作品を制作する際に一般の人々を募り、その人々に課した労働に対する報酬という経済原則の一つをかたどったパフォーマンスや、それを記録した白黒写真を通じて、社会の隠された権力構造を露にする。今回は「No Global Tour」シリーズの一環として、《NO》という巨大なアルファベットの看板をトラックの荷台に搭載し、まちなかに駐車するという作品を出品する。

http://aichitriennale.jp/2010/artists/contemporary-arts/santiago-sierra.html

ミニマル/コンセプチュアルアートの手法を背景に、資本主義社会や日常に内在する権力や階級のヒエラルキーについて探求する作品を世界各地で展開している。シエラは、貨幣交換や労働搾取をテーマに、社会的弱者を雇って無意味なことをさせるパフォーマンスなど、観客にモラルや正当性を問う緊張感を持った作品を発表し続けている。

http://www.echigo-tsumari.jp/artist/santiago_sierra

作品紹介

《line tattooed on 4 people》(2000)

f:id:az13:20180531024909j:plain http://www.tate.org.uk/art/artworks/sierra-160-cm-line-tattooed-on-4-people-el-gallo-arte-contemporaneo-salamanca-spain-t11852
ヤク中の娼婦たちにヘロイン一回分の報酬で、背中につながった合計160cmのタトゥーを彫る。

《Laborers who cannot be paid, remunerated to remain in the interior of carbon boxes》(2000)

f:id:az13:20180531025311j:plain


Workers who cannot be paid, remunerated to remain inside cardboard boxes

亡命者に一日4時間6週間ダンボール箱の中に入ってもらい少ない謝礼を与えることで、彼らの置かれた状況を表現する。

《120 hours of continuos reading of a telephone book》(2004)

f:id:az13:20180531025754j:plain


Santiago Sierra

パレスチナ人しか載っていない電話帳をアラブ語のまま120時間読み続け、イスラエルでのパレスチナ人の声がいかに外に届かないかを表現する。

Santiago Sierra: Mea Culpa

Santiago Sierra: Mea Culpa

Santiago Sierra: Works 2002-1990

Santiago Sierra: Works 2002-1990

リクリット・ティラヴァーニャ

Rirkrit Tiravanija Cook Book

Rirkrit Tiravanija Cook Book

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作家紹介

リクリット・ティラヴァーニャ/ タイ: ฤกษ์ฤทธิ์ ตีระวนิช、 英:Rirkrit Tiravanija(1961-)
アルゼンチン生まれ。タイ王国の芸術家。

芸術家の社会的役割を探求するリクリットの作品はパリのパレ・ド・トーキョー現代美術館館長のニコラ・ブリオ(Nicolas Bourriaud)は「関係性の美学」を持っていると評した。リクリットのインスタレーション作品は饗宴、料理、読書、音楽鑑賞をするための舞台や空間の形を取る。生活や社会に関わってゆくためのそういった構築物がリクリットの作品の核となる要素になっている。wikipedia:リクリット・ティーラワニット

作品紹介

パッタイ》(1990)

f:id:az13:20170211122139j:plain http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/63546/
ニューヨークの画廊でタイ風焼きそばを振るまった。

《Untitled(Free/Still)》(1992/1995/2007/2011)


リクリット・ティラバーニャ「無題(Free/Still)」1992/1995/2007/2011-MoMA

《Lung Neaw Visits His Neibours(ニュウおじさん、ご近所を訪ねる)》(2011)

f:id:az13:20170211122759j:plain

「私たちは、簡素な日常世界のなかで、自分の周りの自然環境や村の仲間を思いやり、大地の恵みで暮らしを立て、ご近所を訪ねるニュウおじさんを追いかけます。そこにあるのは、慎ましいひとりの人間のあるがままの姿と、私たちの世界をより良く変革していくもうひとりの人間なのです。」 「ニュウおじさんは60才の時、タイ北部のチェンマイ県にある小さい村で、米づくりを引退しました。首都バンコクでの近年の政治変動の喧騒や民主改革を求める声から遠く離れて、カメラはニュウおじさんの日常を追っていきます。ニュウおじさんは、生まれた時から魚を捕り、狩りをし、家の近くの原っぱや森に生える薬草や植物を探すなど、自然の恵みで生きてきた人です。生活の雑用をこなしてまわり、田舎の生活に役立つあれこれをしながら、空いた時間を埋めていきます。その合間に、近所の人たちと時間を過ごします。地元の賢人や、深い谷の病気の年老いたボス象、彼の家の前庭で遊ぶ子どもたち、地元のたまり場にいる若者。ニュウおじさんは、敵もなく、決めつけることなく公平で、謙虚で控えめな人として、近隣の村で知られているのです。」 「大勢の人々が平等、機会、自己決定を求め、その手に民主主義を望んでいるまさに今こそ、私たちは、こう問いかけなければいけないのです。「すでに楽園に住んでいる者は、何をさらに求め得るのか?」と。ニュウおじさんのなかに、こうした要求への答えと問いかけの両方を見るのです。彼の自己洞察と自立の継続のなかに、思いやりと謙虚さのなかに、そして現実と日々の簡素な日常からなる物語のなかに。」 -リクリット・ティラヴァーニャ*1

《Do not Ever Work(決して働くな)》(2016)

ギー・ドゥボールの落書きを引用した作品で、今までに多言語に翻訳、発表されている。

Rirkrit Tiravanija: A Long March

Rirkrit Tiravanija: A Long March

This Is the House That Jack Built

This Is the House That Jack Built

ゲルハルト・リヒター

GERHARD RICHTER  ゲルハルト・リヒター (DVD付)

GERHARD RICHTER ゲルハルト・リヒター (DVD付)

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作家プロフィール

ゲルハルト・リヒター/ Gerhard Richter(1932-) ドイツ生まれ。

手ぶれを起こしてピントが合わなかった写真かと見まがうような人物像や風景画、色見本のようなカラーチャート、色彩鮮やかな抽象画など、一人の画家としては異例なほどさまざまなスタイルを駆使する。
1932年、東ドイツドレスデンに生まれ、同地の美術アカデミーに学ぶ。59年、カッセルのドクメンタⅡなどでポロックやフォンタナらの西側の現代美術にふれて衝撃を受ける。ベルリンの壁ができる半年前、29歳で西ドイツに移住。*1

作品紹介

《Tisch(机)》(1962)

f:id:az13:20170206025027j:plain
90 cm x 113 cm Catalogue Raisonné: 1
Oil on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/photo-paintings/household-icons-39/table-4954/?&artworkid=1&info=1&p=1&sp=32

《Ema (Akt auf einer Treppe)(エマ(階段を降りる裸婦))》(1966)

f:id:az13:20170206023133j:plain
200 cm x 130 cm Catalogue Raisonné: 134
Oil on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/photo-paintings/nudes-16/ema-nude-on-a-staircase-5778?&categoryid=16&p=1&sp=8&tab=associated-works-tabs

《Zehn Farben(10色)》(1966)

f:id:az13:20170206033219j:plain
135 cm x 120 cm Catalogue Raisonné: 135-1
Lacquer on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/abstracts/colour-charts-12/ten-colours-10704/?&categoryid=12&p=1&sp=32

《4 Glasscheiben(4枚のガラス)》(1967)

f:id:az13:20170206033702j:plain
4 parts, each: 190 cm x 100 cm Catalogue Raisonné: 160
Glass and iron
https://www.gerhard-richter.com/en/art/other/glass-and-mirrors-105/4-panes-of-glass-5876/?&categoryid=105&p=1&sp=32

Zwei Kerzen(2つのローソク)》(1982)

f:id:az13:20170206030737j:plain
120 cm x 100 cm Catalogue Raisonné: 497-1
Oil on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/photo-paintings/candles-6/two-candles-6354/?&artworkid=1&info=1&p=19&sp=32

《Glasfenster, 625 Farben(ステンドグラス、625色)》(1989)

f:id:az13:20170206033920j:plain
273 cm x 268 cm Catalogue Raisonné: 703
Coloured lead-glass window
https://www.gerhard-richter.com/en/art/other/glass-and-mirrors-105/stained-glass-window-625-colours-6667/?&categoryid=105&p=1&sp=32

《Spiegel, grau(鏡、灰色)》(1991)

f:id:az13:20170206034048j:plain
280 cm x 165 cm Catalogue Raisonné: 735-1
Colour-coated glass
https://www.gerhard-richter.com/en/art/other/glass-and-mirrors-105/mirror-grey-6870/?&categoryid=105&p=1&sp=32

《Ema (Akt auf einer Treppe)(エマ(階段を降りる裸婦))》(1992)

f:id:az13:20170206023539j:plain
224.0 cm x 150.0 cm Editions CR: 80
Cibachrome photograph mounted on Alucobond, framed and behind glass
https://www.gerhard-richter.com/en/art/editions/ema-nude-on-a-staircase-12772

《Schädel(ドクロ)》(1983)

f:id:az13:20170206031421j:plain
80 cm x 65 cm Catalogue Raisonné: 545-1
Oil on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/photo-paintings/skulls-55/skull-6529/?&artworkid=1&info=1&p=20&sp=32

《Äpfel(リンゴ)》(1984)

f:id:az13:20170206031547j:plain
65 cm x 80 cm Catalogue Raisonné: 560-1
Oil on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/photo-paintings/apples-3/apples-4759/?&artworkid=1&info=1&p=21&sp=32

《23.3.86》(1986)

f:id:az13:20170206033005j:plain 80 cm x 100 cm
Oil on gelatin silver print
https://www.gerhard-richter.com/en/art/overpainted-photographs/other-73/23386-14699/?&artworkid=6&referer=search-art&p=1&sp=32

《Betty(ベティ)》(1988)

f:id:az13:20170206031749j:plain
102 cm x 72 cm Catalogue Raisonné: 663-5
Oil on canvas
https://www.gerhard-richter.com/en/art/paintings/photo-paintings/children-52/betty-7668/?&artworkid=1&info=1&p=22&sp=32

《Baader-Meinhof-Fotos (18. Oktober 1977)(バーダー・マインホフの写真(1997年10月18日))》(1989)

f:id:az13:20170206032515j:plain
51.7 cm x 66.7 cm Atlas Sheet: 470
https://www.gerhard-richter.com/en/art/atlas/baader-meinhof-photographs-18-october-1977-12050/?&referer=search-art&title=1977&p=1&sp=32

《Schwarz, Rot, Gold(黒、赤、金)》(1999)

f:id:az13:20170206030121j:plain
2043 cm x 296 cm Werkverzeichnis: 856
Farbig emailliertes Glas
https://www.gerhard-richter.com/de/art/paintings/abstracts/abstracts-19951999-58/black-red-gold-10489

解説

美術界は今、写真と映像の氾濫である。どちらを抜きにしても、現代の美術について語り得ない。たとえば1997年の夏のヨーロッパ、ヴェネツィアの第47回ビエンナーレやカッセルの第10回ドクメンタの2大国際美術展にしても、個としての絵画や彫刻が影をひそめつつある反面、ヴィデオ・アートや映画、インターネットまでも駆使したハイテク・アートの隆盛には目を見張るものがあった。そしてどちらの会場でもゲルハルト・リヒターの作品群は他を圧していた。ヴェネツィアビエンナーレでは国際賞を受賞した。

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マルセル・デュシャン 階段を降りる裸体No.2(1912)
wikipedia:en:Nude Descending a Staircase, No. 2

リヒターに『エマ(階段を降りる裸婦)』(1966)という作品がある。マルセル・デュシャンの有名な作品を踏まえたもので、一見すると、焦点のぼけた写真だが、実は写真をもとに油彩で「描いて」あるのだ。しかも、手ぶれを起こしてピントが合わなかったように、わざとぼかして描き出す。フォト・リアリズム、スーパー・リアリズムなどと呼ばれたリチャード・エステスやチャック・クロースの技法は、写真をもとに対象を精密に復元する。そのあまりの精密さに、見るものは唖然とさせられる。わざとぼかして描き一種の不安感、焦燥感をかきたてるリヒターは、彼らとは対極に位置する。

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リヒターは後年、この油彩画の『エマ』を改めて写真に撮り拡大してプリントにした写真作品の『エマ』(1992)を発表した。油彩の自作を、ふたたび写真というメディアを使って作品化したわけで、このほうは12点制作したという。いわば、絵画と写真との関係に揺さぶりをかけ、絵画というものの概念を変えたといっていいだろう。
リヒターは1932年、旧東ドイツドレスデンで生まれ、15歳のころ画家を志した。ドレスデン美術アカデミーを出た後、1959年に旧西ドイツに旅行し、カッセルのドクメンタジャクソン・ポロック、ルチオ・フォンタナの抽象絵画を見て衝撃を受けた。1961年2月には、デュッセルドルフに移住、東西を分断する壁がベルリンにできる半年前だった。デュッセルドルフの美術アカデミーでジグマー・ポルケらに出会って、「資本主義リアリズム」のためのデモンストレーションをおこなった。

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「かつて画家は外に出てデッサンした。われわれはシャッターを押すだけだ」。リヒターは1962年、新聞写真をもとにした『机』という作品を発表。写真をキャンバスに描き写すという特徴的なスタイルを早くも生み出した。ピンぼけのような効果を与えることで、独自の絵画作品として完成させたのである。この『机』を作品番号「1番」として、以後の作品にはすべて通し番号がつけられている。1964年、ミュンヘンデュッセルドルフ、ベルリンで個展を開催した。
リヒターは1973年の『ノート』で、主観性への嫌悪の情を披瀝し、近代のドイツ美術に支配的だった表現主義、戦後の、表現主義的な絵画や彫刻に対する世間一般の熱狂に背を向ける姿勢を示した。個人的な感情をいっさい排除して、制作に当っては、「極めて敏感で無関心で従属的な機械のように反応する」ことを望んだ。
こうした理論のもと、リヒターは、格子状のカラー・チャート、絵具の塗りのテクスチャーだけが見てとれる灰色一色の画面、絵具を厚く塗ってかき落とす鮮やかな色彩の抽象画と、次々に新たな試みに挑んだ。ときにはウンベルト・ボッチョーニら未来派の画家が試みたように人の動きをコマ送りのように見せたり、近年は写真の上に油絵具を乗せたオイル・オン・フォトグラフ、ガラス板にカラー・シートを張ったミラー・ペインティングなどの技法を創始するなど、多彩な展開をみせている。リヒターが、「絵画の終焉」がささやかれはじめた1970年代に本格的な活動をはじめたというのも象徴的だ。

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1980年代に入ってからは、宗教美術史でおなじみのロウソク、リンゴ、ドクロなどの象徴的なイメージを写真をもとに繊細に描き、同じ技法を使って彼自身の娘の肖像『ベティ』(1988)や、母子像の『Sと子供』(1995)などを制作した。

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ドイツ赤軍のメンバーの獄中死を扱った『1977年10月18日』(1988)は、単に事件を記録したものではなく、「同情と悲しみ」に駆られて描いた「言葉に尽くせぬ感情のひとつの表現」とリヒター自身が明言している。「個人的な感情をいっさい排除」したいと『ノート』にしたためた1973年のころと比べて、その芸術観も変わってきたのかもしれない。

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リヒターは今、ケルンに拠点をおいている。統一ドイツの首都移転に伴い、1999年に完成する旧帝国議会議事堂内に壁画を描くことになっている。アトリエに模型を置いて、構想を練っているという。

松村寿雄*2

ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論

ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論

リュック・タイマンス

Luc Tuymans (Contemporary Artists)

Luc Tuymans (Contemporary Artists)

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作家プロフィール

リュック・タイマンス/ Luc Tuymans(1958-) ベルギー・モルツェル生まれ。現在、ベルギー・アントワープ在住*1

彼の作品は、90年代半ばの閉塞感漂う現代美術の中にあって、伝統的な手法である「絵画」を再認識させる上で大きく貢献したと言えます。また、彼の絵画は若い多くの画家に影響を与えており、その存在は、現代の絵画の可能性を語る上で欠かすことができません。*2

作品紹介

《Gaskamer (Gas chamber)》(1986)

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50,0 x 70,0 cm
oil on canvas
http://www.zeno-x.com/artists/LT/luc_tuymans.html

うつろな画面が伝える悲惨な暴力の歴史
タイマンスの絵画には、戦争やホロコーストといった過去の悲惨な歴史に言及した作品も多くみられます。
これらの作品は、表面的には他の作品と同様、怒りや悲しみなどの感情が一切払拭された無機質な画面 として描かれていますが、しかし逆に、イメージが淡々と描き出されていることにより、その事実が示唆する過去の惨劇の凍りつくような真の恐怖がより大きな戦慄を伴って見るものに伝わってきます。

またスナップ写真のようにカジュアルに切り取られた歴史の断片は、その淡白な印象とともに私たちの日常に秘められたそうした過去に直接結びつく「暴力」や「恐怖」の因子を浮かび上がらせもします。

彼は「自分たちの新しい兵舎(our new quaters)」(未出品)と誇らしげに書き込まれた、ある古い兵舎の写 真をもとに描いた作品について次のように述べています。「これは絵画というよりむしろ、戦争を想起させるある種の主張であるといった方が良い。それは暴力の象徴でもある。私は西洋文明とは、それ自身が進歩を続けるために破壊行為を繰り返し行なってきた、稀に見る数少ない文明であると考えている。」

《時間》(1988)

f:id:az13:20170205053038j:plain
油彩、キャンバス
30.0×40.0cm、39.0×40.0cm、37.0×40.0cm、41.0×40.0cm https://www.operacity.jp/ag/exh13.php

映画的な手法による構成
タイマンスは80年代初め、一時絵画を離れて映画を撮り続けていました。彼がよく用いるクローズアップや、部分のみを描くカットアップ、さらには断片的なイメージを組み合わせるモンタージュといった映画的な手法は、その後の彼の絵画を特徴づける重要な要素となっています。彼はこれまでDie Zeit(1988)、Der diagonish Blick(1992)、The Heritage(1995)、あるいは Illegitimate(1997)といったシリーズ作品を何回か手がけていますが、これらのシリーズは一見何の関係性も見られない別 々のイメージを寄せ集めた構成となっており、これにも映画的なモンタージュの援用が見て取れます。*3

《Der Diagnostische Blick IV(医学書IV)》(1992)

f:id:az13:20170205050124j:plain
57,0 x 38,0 cm
oil on canvas
http://www.zeno-x.com/artists/LT/luc_tuymans.html

静謐な透明感と現代の漠然とした不安感
ひと気の無い室内、無表情な顔、胴体だけが描かれた幼児の体。タイマンスの作品は、そのほとんどが雑誌やスナップ写 真などの日常的にありふれたイメージをもとに描かれています。それらの作品に漂うどこか寂しげな雰囲気は、その徹底して無機質的な印象とともに、私たちの意識の奥深くに閉じこめられた遠い記憶を呼び覚まします。  表層的でありながら深遠な思想を含み、また素朴を装いながらも高度に洗練された彼の作品は、決して固定的な解釈によって括られることがなく、常にシニカルとミステリアス、シンプルなものと恐怖・暴力との間を揺らぎながら永遠に浮遊し続けるかのようです。彼の絵画がもたらす清澄な透明感と、とらえどころのない茫漠とした不安感といった印象は、高密度に加速し展開し、その一方で深刻な希薄化が進行しつつある現代社会に生きる私たちの存在そのものを、見事に代弁しているとも言えるでしょう。*4

《Himmler(ヒムラー)》(1998)

f:id:az13:20170205050346j:plain
51,5 x 36,0 cm
oil on canvas
http://www.zeno-x.com/artists/LT/luc_tuymans.html

イメージを徹底的に無機質に描くという「暴力」
タイマンスの作品には常に孤独感が漂っています。音も動きも無く、そして喜びや悲しみ、怒りといった感情的な要素もその表面 から慎重にぬぐいとられた絵画。タイマンスはその完全に無機質化された画面 を通して、その中に描かれたごくありふれた日常的なイメージが持つその最も純粋な様相を浮かび上がらせようとしていると言えます。

そのように対象を最もダイレクトに描こうとする態度は、タイマンスによれば、対象に冷徹な眼差しを向け続けたファン・アイクや仮面 の人物を好んで描いたジェームス・アンソール、さらにはつねにクールでありつづけたマグリットといった、シニシズムアイロニーに満ちたベルギー独絵画特の系譜につながるものであると言います。

またそうした一切の粗雑物を排除し、イメージをできるだけシンプルにかつダイレクトに描こうとする彼の絵画は、いわばある種の「暴力」の表出に他ならないとも言います。*5

Leopard》(2000)

f:id:az13:20170205050541j:plain
142,0 x 129,0 cm
oil on canvas
http://www.zeno-x.com/artists/LT/luc_tuymans.html

Lamp》(2009)

f:id:az13:20170205050817j:plain
56,0 x 53,0 cm
oil on canvas
http://www.zeno-x.com/artists/LT/luc_tuymans.html

解説

 彼の絵画の特徴は、硬質で冷ややかな光や、あるいは逆にぎらぎらした光を発するフィルムのスクリーンやテレビモニターのような絵画表面と、フェード・イン/アウトの途中のような映像的なイメージの表現にあるといえる。そこでは、食べ物、家具、玩具などの身近なものが輪郭をぼかされ、拡大縮小され、フレームによって切断され、奇妙な関係性や歪んだ遠近感を与えられて現実との接触を失う。それは、彼が80年代初めに実験的な映像を撮っていたとき修得した物の見方や空間構成を絵画に取り入れた結果だ。
 タイマンスによる感情を抑えた分析的な事物の扱い方は、観客に、イメージを人間的な関心から切り離された即物的な存在として、同時に、色による膨張や収縮の錯覚などによって形成される絵画的、視覚的現象として見るように促す。89年の『償い』では、ナチスの医者が死ぬ間際まで分類していた分断された人体の部分が格子状の棚に収まった物体として、またさまざまな色の面として描かれた。92年のシリーズ「医学書」では、やはりナチスの医者が使っていた患者の顔写真が、淡い色と空虚な目の表現によってさらに非人格化された肖像に変容された。89年の『サスペンデッド』では、郊外の家と家族の風景が、徹底して人工的な光と色で描かれることで、人形の家なのか現実なのかわからなくなっていた。95年の『フランドルの知識人』は、ベルギーの知識人の肖像を、消えそうな輪郭で落書きのように描くことで、その尊大さや空虚さをからかった風刺画である。
 一連の作品は、ジョン・カーリンやエリザベス・ペイトンの作品と並んで、90年代後半の具象絵画の流行を導いた。彼の絵画の実験性は、70年代終わりから90年代の初めまで現代美術の世界に蔓延していた「絵画の死」(ダグラス・クリンプDouglas Crimpが論文「絵画の終り」The End of Paintingで提唱。特権的な絵画の形態や絵画の発展を新しい様式の発明の歴史ととらえる見解が美術を制度的に硬直化させてきたが、それはゲルハルト・リヒターフランク・ステラらの批判でも踏襲されているという)に歯止めをかけた。タイマンスの絵画は一見、写真や広告などをコピーし、新しいイメージをつくるのをあきらめることで、逆に絵を描くという行為を肯定したリヒターの作風を思わせるが、明度や彩度や色彩の操作によって起こる視覚的錯覚や、断片的なイメージが喚起するさまざまな記憶や知覚の運動をその目的とするという点でアプロプリエーションとは別の志向性をもち、具象を通してモダニズム絵画のもっていた絵画的物質性の探求に回帰するものである。[松井みどり] 『「リュック・タイマンス・インタビュー」(『美術手帖』2001年1月号所収・美術出版社) ▽Ulrich Loock et al. Luc Tuymans (1998, Phaidon, London) ▽「リュック・タイマンス展――Luc Tuymans Sincerely」(カタログ。2000・東京オペラシティ文化財団)』タイマンス(たいまんす)とは - コトバンク

Luc Tuymans: Intolerance

Luc Tuymans: Intolerance

ソフィ・カル

Sophie Calle: Did You See Me?

Sophie Calle: Did You See Me?

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作家プロフィール

ソフィ・カル/ Sophie Calle(1953-)
フランス、パリ生まれ。

写真と言葉を組み合わせた物語性の高い作品で知られるフランスの現代美術家。彼女は、ロンドンのテートギャラリーやパリのポンピドゥーセンターをはじめとする各国の主要美術館での個展開催、第52回ヴェネツィアビエンナーレ(2007年)への参加など、世界で最も注目されているアーティストの一人です。

執拗な好奇心に導かれた驚くべき制作プロセスによってうみだされるカルの作品は、常に観るものの感情を強く揺さぶります。自身や他者のきわめて個人的で親密な体験を主題にするカルの作品ですが、そこに提示されるのは、アイデンティティ、コミュニケーション、記憶、知覚といった誰もが日常のなかで向き合う普遍的なテーマといえます。生と芸術表現とのあいだに新たな関係を樹立しようとするカルの試み、それは、わたしたちの現実のさまざまな場面おいて、思いもよらない視点をもたらしてくれることでしょう。*1

作品紹介

《À Suivre(尾行)》(1978)

f:id:az13:20170205010539j:plain http://eyesforblowingupbridges.blogspot.jp/2010/08/suite-venitienne.html

彼女は変装して約2週間、パーティーで会った男性をパリからヴェニスまで尾行した。*2

《Les Dormeurs(眠る人々)》(1979)

f:id:az13:20170205011237j:plain http://www.artwiki.fr/wakka.php?wiki=SophieCalle

彼女は自宅に見知らぬ人や友人を招き入れ、自分のベッドで眠る様子を撮影しインタビューした。*3

《盲目の人々》(1986)

f:id:az13:20170205002854j:plain
写真、テキスト 23点組
http://www.artgene.net/detail.php?EID=11028

〈盲目の人々〉は、「不可視」というテーマを掘り下げたカルの代表作のひとつです。1986年、彼女はこの作品のために1年間にわたって生まれつき目の見えない人たちとの対話を試みました。彼らに「これまでに見た一番美しいものは何か」という質問をぶつけ、インタビューに応じた人の肖像写真、言葉とともにそれをヴィジュアル化した写真を添えて展示したのです。 興味深いことに、彼らの答えの大半は、とても視覚的なものでした。「見ること」とは、私たちが考える以上に主観的なプロセスのようです。彼らが語った言葉は「見ることとは何か」「美とは何か」について思いがけないことを教えてくれるのです。 ところで、棚の上に置かれた写真(盲目の人々の言葉をヴィジュアル化したという写真)が、じつに不可能な試みであると気づくまでに時間は要しないでしょう。彼らが見たものを、いったいどうすれば見ることができるのでしょうか。ここでカルは、ファインダーを向けるだけでは捉えることのできないものが世界にあることを、そして自己と他者とのコミュニケーションの限界を、静かに浮かび上がらせています。*4

《限局性激痛》(1999)

f:id:az13:20170205000317j:plain
原美術館コレクション展:トレース」展展示風景  http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/rxHNlygp41vCdZzT96EL/

「限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。*5

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「限局性激痛」第2部で特徴的なのは、テキストが全て刺繍でつづられている。*6 ソフィの話の刺繍はタペストリーの枚数を追ううちに、少しずつ短くなっていく。そして、タペストリーは白い布地に黒い糸で刺繍されていたのが、白い布地はどんどんグレーがかっていき、最後には真っ黒な布。はっきりと刺繍されていた文字が、その頃には布地の色と溶け込んで、かなり読めなくなってしまう。長々と書かれていた言葉も、そこに至ると「ただそれだけのことだ。」という言葉で締めくくられる。*7

《La Dernière Image(最後のイメージ )》(2010)

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https://epokal.com/monotone_column/4930

13人の“かつて見えていた”盲目の人々に出会う。 この作品で尋ねられるのは、彼らが最後に見ていたものは何だったのかというものであった。 タイトルとこれだけの序文が、作品のビジュアルに意味を人々にもたらせる。 エモーショナルでショッキングな共感を伴いながら。

プロジェクトを通して明らかになったのは、人々が一枚のイメージに対して、 その存在を共有できるだけの虚構すら間が持たないということである。 誰一人として同じ視野を持っていないという当たり前の本質であった。 ソフィ・カルが現したのは、追体験という人それぞれの絶対の主観性である。 人と人の間の境界を乗り越えるのは、それを前提に納得したうえに、 精神の深いところで感じる繊細な意識の共振であるのかもしれない。*8

《Voir la Mer(海を見る )》(2011)

f:id:az13:20170205005949j:plain https://epokal.com/monotone_column/4930

内陸部に暮す人々の仲にはしばしば、海という大いなる母を目の当たりにしたことのないものがある。 人生の中でたった一度も海を見たことのない人々に海を見せるところからプロジェクトは始められる。 やってきた14人は海岸で、その風と波の音と肌触りに包まれながら、それぞれの時間でこちらを振り返る。 14の人々はその思い思いの海に触れて、その表情を14本のビデオに映し出す。 14人分の海はそれぞれ、ソフィ・カルとも、他の誰一人とも同じものではないはずである。 人々は同じ時間同じ空間を共有していても、なお同じ視野を持つことはできない。*9

フェリックス・ゴンザレス=トレス

Felix Gonzalez-Torres

Felix Gonzalez-Torres

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作家プロフィール

フェリックス・ゴンザレス=トレス/ Felix Gonzalez-Torres(1957-1996)
キューバ生まれ。

1987年に、コミュニティ教育や文化活動における基本に立って共同作業を行うニコラボーレションアート集団「グループ・マテリアル」に参加。そこから芸術家としてのキャリアを大きく伸ばしていく。このグループは、政治やジェンダーの問題に対する強い関心を持っていた。*1

トレスは工業的な素材を扱うが、それらは何千個にも及ぶ飴の集積や紙束で、限りない複製を許される。例えば飴の作品は≪無題(大衆の意見)≫と名づけられ、観衆はそれらを持ち帰る事を許され、変化する飴が変貌する社会や消費文化など、重層的な多くの意味を持ち、見る者の心の奥に眠れる感情を呼び覚ます。また、特定の場所に因んだイメージを広告宣伝用の看板に掲示し、見る者が自己の記憶や感情をそこに投影することで、パブリック・ビルボードがプライヴェートを映す場に変わる。トレスは日用品を用いて身近に感じている問題を問い掛け、時代を共有する人々にある思いを喚起させる。1996年に死去するが、その後も2000年のロンドンとニューヨークの回顧展、2007年のベニスビエンナーレの展示などで国際的に注目を集め、現代美術の重要な作家として現在も広く知られている。*2

作品紹介

《Untitled (Perfect Lovers)(無題(完璧な恋人))》(1987-90)

f:id:az13:20170204105331j:plain Wall clocks Overall: 13 ½ x 27 x 1 ¼ inches (34.3 x 68.6 x 3.2 cm) Edition of 3, 1 AP
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled (Loverboy)(無題(いい男))》(1989)《Untitled (March 5th)(無題(3月5日)) #1》(1991)

f:id:az13:20170204104434j:plain “Untitled” (Loverboy) Blue fabric and hanging device Dimensions vary with installation

“Untitled” (March 5th) #1 Mirror Overall: 12 x 24 inches (30.5 x 61 cm) Two parts: 12 inches (30.5 cm) diameter each
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled (USA Today)(無題(今日のアメリカ))》(1990)

f:id:az13:20170204101539j:plain
Candies individually wrapped in red, silver, and blue cellophane, endless supply Overall dimensions vary with installation. Ideal weight: 300 lbs
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled (Portrait of the Wongs)(無題(ウォンのポートレート))》(1991)《Untitled (Double Portrait)(無題(二人用のポートレート))》(1991)

f:id:az13:20170204091323j:plain “Untitled” (Portrait of the Wongs) Paint on wall Overall dimensions vary with installation.

“Untitled” (Double Portrait) Print on paper, endless copies 10 ¼ inches at ideal height x 39 3.8 x 27 ½ inches (original paper size)
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled(無題)》 (1991)

f:id:az13:20170204111502j:plain
Billboard, dimensions vary with installation. https://www.moma.org/explore/inside_out/2012/04/04/printout-felix-gonzalez-torres/

《Untitled(Placebo)(無題(偽の薬))》(1991)《Untitled(無題)》(1991-93)

f:id:az13:20170204103755j:plain “Untitled” (Placebo)“ Candies individually wrapped in silver cellophane, endless supply Overall dimensions vary with installation. Ideal weight: 1,000 - 1,200 lbs

“Untitled” Billboard Two parts: dimensions vary with installation.
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled(無題)》(1991-93)《Untitled (Couple)(無題(カップル))》(1993)

f:id:az13:20170204094138j:plain On wall: “Untitled” Billboard Two parts: dimensions vary with installation.

Center: “Untitled” (Couple) Light bulbs, porcelain light sockets and extension cords Two parts: Overall dimensions vary with installation.
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled(無題)》(1992/1993)

f:id:az13:20170204090459j:plain
Print on paper, endless copies 8 inches at ideal height x 48 ¼ x 33 ¼ inches (original paper size) http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled (America)(無題(アメリカ))》(1994)《Untitled(無題)》(1992-95)

f:id:az13:20170204092200j:plain “Untitled” (America) Light bulbs, waterproof rubber light sockets and waterproof extension cords Twelve parts: Overall dimensions vary with installation.

“Untitled” Medium varies with installation, water Two parts: 12 feet or 24 feet in diameter each Overall dimensions: 24 x 12 feet or 48 x 24 feet, height varies with installation; ideal visible height is 14 to 16 inches.
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

《Untitled(Golden)(無題(ゴールデン))》(1995)

f:id:az13:20170204104329j:plain
Strands of beads and hanging device Dimensions vary with installation.
http://www.andrearosengallery.com/artists/felix-gonzalez-torres/images

解説

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無題(世論)(1991)などのコーナーやフロアに広がったラップされたキャンディーの彫刻は、視聴者が作品に触れて消費するように求められているため、美術の世界的な慣行に反する。 1989年からは、写真やテキストが印刷された紙の塊を彫刻し、観客にシートを取るよう促しました。彼らが補充されなければ時間の経過とともに徐々に消えていくこれらの作品の無残は、人生の脆弱性を象徴しています。*3

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また1992年に、無題(1991)、2つの不在の体の痕跡と空のゴンザレス・トレス、整えられていないベッドの官能的なモノクロの写真は、ニューヨークの街中で24個の看板に設置されました。この謎めいたイメージはカップリングの祝典と最近エイズで亡くなった恋人の記念碑の両方の意味がありました。メランコリックな市民規模の記念碑としての設置は、民間行動の公的な監視に問題をもたらした。 *4

f:id:az13:20170204103755j:plain

僕が「無題(偽の薬)」を作ったのはそれを作る必要があったからだよ。その作品が消えて、存在しなかったという状態を作りたかったという以外に理由はないんだ。ロスが死んでいくという例えだったんだ。だから、作品が僕自身を放棄する前に、僕が作品を放棄したのだろう。作品が僕を破壊する前に、僕が作品を破壊したのだろう。それはこの作品にもたらす僕のちょっとした特権といえる。ずっとそうしたいわけじゃないけど。なぜなら、結局のところ作品は僕を傷つけるわけじゃないからね。 最初から、作品はそこに存在していなかった。僕は存在してないものを作ったんだ。僕はその痛みをコントロールする。それは本当だ。それがこの作品の意味の一部だと思う。もちろん、作品のくだらない誘惑的な側面や、「本物の」アートについての作品であるべきだけど。それは分かっている。でも、その一方で、このことは(ロスのために制作したということは)個人的なレベルでは、とってもリアルなものなんだ。それはインチキ・アーティストであるということを意味しないけど、言い訳でもある。喜びへの言い訳。子供みたいにキャンディーでいっぱいにしたいというね。まず重要なのは、ロスについての作品だったということ。それから、僕自身やその他のみんなを喜ばせたかったということなんだ。*5

f:id:az13:20170204091323j:plainf:id:az13:20170204092200j:plain

2つの輪は、結婚指輪と見なすことができ、永遠の愛や永遠の愛のシンボルや円と数字の8を参照しています。このモチーフ、または2つの同一の円形オブジェクト(ミラー、時計、金属リング、電球など)のものは、ゴンザレス=トレスの作品では、「完璧な恋人」の記号として、2人の身体と意識を表しています。正確な対称性の使用は、同性愛者の愛を暗示します。*6

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス

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作家プロフィール

ペーター・フィッシュリ/ Peter Fischli(1952-)ダヴィッド・ヴァイス/ David Weiss(1946-2012)

ともにチューリヒ生まれ、同地在住。

1970年後半、アーティスト、ウルス・ルッティとの交流や、当時チューリヒのアートシーンにおいて中心的な場であったバー「コンティキ」等を通じて親交を深める。1979年、ソーセージやハムで日常を再現し写真に撮った風景画「ソーセージ・シリーズ」を、1981年、自らネズミとクマに扮し、社会システムの矛盾を暴き、自らの秩序を構築しようとする映像作品《ゆずれない事》、冊子《秩序と清潔さ》を制作。以降、様々なメディアを柔軟に操り、「日常」をテーマに共同制作を続けている。一つのシリーズ、モチーフに膨大な時間が費やされる表現には、極大と極小、平凡と非凡、道理と不条理、秩序と無秩序が混在し、新たな世界像が提示される。2003年ヴェネチア・ビエンナーレで発表した《無題(質問)》で金獅子賞受賞。*1

作品・シリーズ紹介

《Sausage Photographs(ソーセージシリーズ)》(1979)

f:id:az13:20170204063134j:plain
《カーペットショップにて》(《ソーセージシリーズより》)(1979)写真
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/WcrKE9O71SFeQpfgGLbR

フィッシュリとヴァイスが最初に共同で制作した作品。冷蔵庫の中、洗面所、ベッド、バスタブを舞台に、ソーセージやハムのスライス、吸いかけのタバコ等を用いて、火事、山の一場面、交通事故、歴史的事件を形にしたもの。再現された世界の物語性と用いられた素材自体の即物性の併置から、表現の在り方を模索する作家の姿勢が伺える。*2

《The Least Resistance(ゆずれない事)》(1980–81)


Fischli and Weiss' THE POINT OF LEAST RESISTANCE
16ミリフィルム 30分 フィルム・スチル
camera: Jürg V. Walther

最初の映像作品《ゆずれない事》(1980-81)で、ネズミとクマは芸術でひと儲けを企むが殺人事件に巻き込まれる。さんざんな目に遭いながら、ネズミとクマは社会システムを独自に解読し始める。*3

《THE Right Way(正しい方向)》(1982-83)


Fischli and Weiss' THE RIGHT WAY
16ミリフィルム 55分

《正しい方向》(1982-83)での彼らは、知性と野心を備え、自然界で生きる術を模索する。この2作品に登場した大きなネズミとクマは今、キャビネットの中に陳列される。小さなネズミとクマは、バロック様式の宮殿や日本庭園を巡る。天井からつり下げられ空中を浮遊するネズミとクマはカラフルな光と煙の奥へと消える。*4

《Suddenly this Overview(不意に目の前が開けて)》(1981/2006)

f:id:az13:20170204061744j:plain
アインシュタイン夫妻、息子の天才アルベルトを作った直後》(《不意に目の前が開けて》より)(1981) 粘土
http://www.the-aesthetic-of-the-fragment.info/021.html

DW 粘土のオブジェはナラティブの要素がとても強いです。まずは世界史において重要な出来事と些細な出来事との両方を作りたいというコンセプトを基に始めたのですが、タイトルは参照せずにオブジェそのものだけを見たら何がなんだか分からないかもしれません。ふたりの人がベッドで寝ているのを見ても、タイトルがないとただふたりの人が寝ているというだけのものです。しかし、「Herr and Frau Einstein shortly after the conception of their son, the genius Albert(アインシュタイン夫妻、息子の天才アルベルトを作った直後)」というタイトルを読めば打って変わって新たな意味が生まれます。*5

《Equilibres(均衡)》(1984/85)

f:id:az13:20170204062916j:plain
《無法者》(《均衡》より)(1984/85) 写真 http://www.artgene.net/detail.php?EID=6458

タイヤ、椅子、靴、ブラシ、フォーク、キッチン用品などが危うげなバランスでたたずむ。本シリーズは、静止状態を保つことのできない形を写真に留めることにより「つかの間の彫刻」として永続性を持たせている。重力とバランスにより危うく立つ姿が、観る者の感情をゆさぶる。各作品には、《ピラミッドの秘密》、《無法者》などのタイトルがつき、物語性が強い。*6

《Visible World(目に見える世界)》(1986–)

f:id:az13:20170204073416j:plain
light table with 3000 photographs, 83 x 2805 x 69 cm.
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/WcrKE9O71SFeQpfgGLbR

PF 最近、チューリヒでとある写真家と話をする機会がありました。彼は自分の職業はもう時代遅れだと言っていました。存在し得るイメージは今ではもう全て存在し、欲しいものはなんでもデータバンクから引っ張ってくることができるというわけです。わざわざツェルマットまで行って自分でマッターホルンの写真を撮る意味はもはやありません。「Visible World」を作ったときにも既に膨大な数のイメージが存在していましたが、全く理にかなわないことをしたというのが今や作品の核心をなしていると思います。たとえイメージそのものが存在していても自らその場所に出向いて自らイメージを作ると決めて、実際にやりました。写真を撮るということが無駄な行為となっていくにつれ、作品の意味がますます深まっていくようにさえ思えます。個人的な経験というものから離れることはできません。

DW エジプトのピラミッドを見に行くと、その場に立つ前からもう殆どの角度から見たことがあるため既に隅々まで知っていることに気が付きます。「Visible World」を作り始めたときにもこの現象が既に起こりつつあって、カタログを出版するほどのイメージバンクもありました。ちなみに私たちはそのカタログを集めていたのですが、それを使ってアーティストブックを作ったこともありました。

PF カタログを使って本を作るほど、このようなイメージバンクに興味があったのですが、私たちの写真をよく見ると何かがちょっと変だということに気が付きます。イメージバンクの写真は超プロ級の理想化されたイメージで、私たちには届かなかった完成度に達しています。だから私たちが撮ったマッターホルンの写真とイメージバンクのマッターホルンとを比べたときに見える違いは、ある意味、私たちの彫刻オブジェと実際の物との違いと似ていると言えるかもしれません: 100%までは達していないということです。*7

《Airports(エアポート)》(1987–)

f:id:az13:20170204074323j:plain
Cプリント 各H160 x W225 cm
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/vwpZOPsDiqGHnVF9BJfa/?lang=ja

1987年以降、世界各地を移動する中、空港を撮影した作品。現在も進行して いるプロジェクト。異なる文化圏にありながらも共通に機能する空港の均質 さ、飛行機から垣間見える各国のアイデンティティ、夜の光、雨のしずく、窓越しに見る空港の情景の豊かさが映し出されている。*8  

ART iT そういう意味では、私にとってあなた方の作品に妙に距離を感じる理由のひとつは、作品を理解するための情報が全て作品自体に含まれているという点です。空港の写真は必ずしも空港の批判ではなく、空港の理想化とも限らない。空港のイメージそのものであるという事実だけは確かで、より深く解釈したくなければそれでよい、という。

DW 私は作品の多くをある種の招待と考えています。作品に招き入れられて、それからどう理解するかはあなた次第。誘惑とも言えるかもしれません。

PF 「より深く」というのはどういうことなのでしょう。作品に深入りするということ。これはいくつもの意味を持つことができます。もちろん、スーザン・ソンタグの「反解釈」という非常に説得力のある概念もありますが、そのような態度には鑑賞者を煙に巻いてしまう危険性があります。最終的には作品自体のフォルム、つまりこの写真の表面やその粘土のオブジェのフォルムがあるだけで、どれだけ知的・感情的に深入りするかというのは各々によることであり、作品自体から読み取ることはできません。

ART iT もしかしたら窓ガラスのような透明性という見方もあるかもしれません。自分の姿が窓の表面に反射されていて、窓を通して何かを見ることも、窓そのものを見ることもできます。『Airports』では自らの空港の経験が反射されると共に、誰か他の人の空港の経験を見ることも、単に空港のイメージを見ることもできます。

PF 実は今、『Airports』の写真を基にまた新しい本を作っているところなのですが、過去12年か15年くらいの間に写した800ほどの空港の写真を見ていて、突然「あれ、これは天気についての本になるな!」と気付きました。イメージの編集を始めると、雨が写っているものや雪の写っているものが目について、実際に天気を中心とした本として構成することもできることに気が付きます。 でもそれは同時に現代の紋章学、ロゴや標識についての本にすることもできます。空港の飛行機では国旗やロゴが混合されているのがとても面白くて、例えばアリタリアの場合はイタリアの国旗の色はもはや国家の象徴ではなくなりブランドと国家とが重なり合っています。この重なり合いに興味が惹かれますが、これもまた作品のひとつの要素に過ぎないのです。*9

DW 『Airports』の写真集(1990)を作ったときに、撮影した空港の名前を書かない方が良いことに気付きました。人は大抵そこに写っているのはヒースローかケネディか知りたがり、それだけで満足してしまいます。でも私にはその情報がない方がイメージとしてある意味もっと深みが増すように思えるのです。だから美術家としては情報を隠すという手法もあります。先ほど挙げられた広告のインスタレーションの場合は逆に情報が多過ぎるからこそ、なぜそれらのイメージが一緒に組み合わさっているのか鑑賞者には分からない、ということになるのでしょう。人をこらしめるという要素もあるのかもしれません。*10

《The Way Things Go(事の次第)》(1987)


The Way Things Go
16ミリフィルム 30分

「均衡」シリーズの制作から着想を得た作品。ゴミ袋、タイヤ、梯子、ペットボトルなどの空の容器、風船、椅子、モップ、車輪のついた簡素なオブジェ—— 重力、遠心力、水力、化学変化によって引き起こされる発泡、煙、火等によりドミノ倒しのように、次から次へとエネルギーを伝えていく。現象のみで紡がれた物語には人の気配は一切排除され、あたかもガラクタひとつひとつが能動的にひとつの方向に向かってエネルギーを伝えようとしているかのようである。*11

《Untitled (Questions)(質問)》(2003)

f:id:az13:20170204070955j:plain
第50回ヴェネチア・ヴィエンナーレでの展示風景(2003)
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45&d=854

「街を治めるのは誰だ?」「銀河はどこへ向かうのだろう?」「我々は自分の意見と共に生きていかねばならないのか?」など身の回り些細なことから哲学的なものへと及ぶ問いが、止むことなく空中を漂う。10台以上のスライド・プロジェクターにより現れるこれら数々の問いは、観る/読む者に答えを出す間を与えず消えては新たな問いへと止む事なく移り変わり、同時多発に現前する。このような世界や人間心理を問う「質問」は、1981年制作の映像作品《ゆずれない事》の最後のシーンで主人公のネズミとクマが社会システムを図式化し、実際、冊子として発表された《秩序と清潔さ》(1981)の中に現れる。その後、ポリウレタンで成形された大きな壷型の作品《質問の壷(大)》(1986)では、内側全面に渦状に質問が書かれる。また、2002年には『幸せは僕を見つけてくれるかな?(Findet Mich Das Glück?)』という書物となる。質問は現在も増え続けている。
※解説:北出智恵子*12

《Sun, Moon and Stars(太陽、月と星)》(2008) f:id:az13:20170204075838j:plain
797 facsimile reprints of advertisements, offset prints in color, 38 vitrines of wood, glass and steel, each 78 x 177.5 x 72.5 cm, total 268.2 x 77.0 x 72.2 cm.
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/vwpZOPsDiqGHnVF9BJfa/?lang=ja

PF 広告のプロジェクトのきっかけはごく単純です。2007年にスイスのリンギアーAGという報道会社が年報のためのプロジェクトを私たちに依頼しました。そこで、リンギアーAGの収入について調べてみたところ、雑誌の収入の9割以上はキオスクでの売上ではなくて広告収入だということが分かりました。よし、業績報告なのだから業績に注目しよう。年報を広告で一杯にすれば発行者が喜ぶのではないか——雑誌の発行者は誰だって広告をたくさん載せたいわけだから、と考えました。 それから色んな雑誌の広告を集めだして、ニューススタンドとは要するに現代についての百科事典なのだということに気が付きました。「Suddenly This Overview」でやろうとしていたこととあまり変わりません。ニューススタンド、つまり駅や路上で雑誌などを売る小さな売店には想像しうる全てのテーマについての雑誌が並んでいます。携帯電話、コーヒー、食べ物、フライフィッシング、武器、壺、鳥、猫——なんだってあります。これは凄い、と思いました。 色んな雑誌の広告を切り取ってセクション別に分けて並べてみたら、それぞれの広告が全て連関している様子が見えてきました。そこで、私たちはこのたくさんの広告ページを使って誰かの生涯をまるごと表すことができるのではないかと考えました。花嫁と結婚式から始まって、ホテルでのハネムーン、妊娠、赤ちゃん、その赤ちゃんが成長してポップミュージックやスニーカーを買うティーネージャーになって、という設定で。人の生涯はその人が消費する物だけを通して表すことができます。初めて消費したのは哺乳瓶に入っているミルクだったり、ということです。ジョルジュ・ペレックの小説『物の時代』(1965)とそっくりとまでは言いませんが、似たようなコンセプトです。

DW また、例えば車というような特定のセクションに限って考えるとしても、それは人がどのようにして車を売ろうとしているか、その広告に至るまでの思考やコンセプトについての記録になっているのです。ボルボは安全と家族を意味し、また別の車は地平線の前に若い男女と共に写っている。それぞれのイメージに途轍もない努力がつぎ込まれています。 それらの広告が雑誌の中にあるときには特に気に留めることは殆どありませんが、よく見るとかなりシュールなイメージもあったりします。とにかく全て何かを売るためのイメージで構成されているのです。その一方で、売り手としては広告を基に人々が商品を買ってくれるという希望や見解しかないわけです。

ART iT 前回、『Airports』や「Visible World」といった、今日におけるイメージの陳腐さを受け入れているとも言える作品について話をうかがいました。しかし、それらの作品を鑑賞する側としては、どうしても見たままの率直さを受け止めずに深読みしてしまうこともあります。個人的には例えば雑誌から引きちぎられた広告のページとテーブルのインスタレーション作品「Sun, Moon and Stars」(2008)を見たときのことが挙げられます。そのときには一体どういう意味を持った作品なのかうまく理解できませんでした。後に残っていたのは何かを逃してしまったということ自体ではなくて、むしろ何かを逃した悦びでした。あなたたちの作品の多くには、深読みしてしまう危険と趣旨を完全に逃してしまう危険との間の繊細なバランスが見られるように思えます。

PF 私が好きな美術作品にはそのように何かを逃す体験をするものが多いです。作家の意図や作品が何を意味しているかがあまりにも分り易すぎるという理由で他の美術家を批判することだってあります。何かを逃すということ、本当は一体何が起こっているのか不思議に思わせることこそが美術の重要なポイントのひとつです。*13

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幸福はぼくを見つけてくれるかな?

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